Q & A でみるクラシック・スタイルとモダン・スタイルの作曲について

クラシック・スタイルとモダン・スタイル(現代音楽)との違いは何ですか?

 クラシックは歌を歌として歌うのが基本です。また、本来人が歌う歌を、器楽というデバイスを介していかにして歌わせるか、そこに重きが置かれています。 例えばヴァイオリンならロングトーンにヴィブラートをたっぷりにかけ、歌は歌にふさわしい音律で音を取り、 縦の響きではそれにふさわしい純正律で取ります。ブラームス、シューマンの室内楽…それは我々がよく耳にするクラシックのスタイルでしょう。 たっぷりピアノで歌わせるショパンのスタイルも同様です。

 いっぽう、モダンスタイルではそうした耳慣れた楽器の使用方をすべて裏返しにしていきます。それまで使われなかった仕方でばかり、 音楽が書かれます。或いは、クラシック時代に特殊効果として限定的にしか用いられなかった用法がむしろ作品全域を支配するものとして 製作されます。モダンスタイルの作曲家たちは、耳にこびりついたかつての歌の響きをいったん捨て、新たな航海に出たともいえます。 もちろんそれは、音楽を取り巻く技術革新と軌を一にするものともいえます。いずれにせよ、モダンスタイルの人たちは そうした歌の響きに何かもう飽きてしまったところがあるともいえそうです。 当然そうした裏返しが、当然、和声、旋律、あらゆる面に於いて、作品の製作、コンセプトそのものにも及んでいくのは必至です。

モダンスタイルにおいてロマン派的なものは忌避される傾向がある気がするのですが…

 実はロマン派という言葉自体、否定的な意味を帯びています。例えば国を防衛しなくても攻められることはないという論調の人たちに対して ロマン派だ、とのレッテルを貼ることもあれば、逆に、国のために今こそ戦うべきという人たちに対して、ロマン派だということもあります。 要はネガティブなイメージで使われているのですが、モダンスタイルでロマン派的な響きが拒絶されるのは、 モダンスタイルでは基本的にはマトリックス(一覧表)を設計し、それを基準にして音楽が書かれていくので、 歌を基準にするロマン派的な発想を持っていると、マトリックスにしたがった作曲がやりにくくなってしまうから、ともいえます。 むろん、マトリックスに従うからと言って、歌が全く介在しないという意味ではありません。現代音楽でも歌はいまだに生かされています、が、 作曲する際の発想として、通俗的な意味での歌を基準にして作っているのではない、ということです。

モダンスタイルと構造主義の関係はどんなものですか?

 マトリックス(一覧表)に基づいて創作するというのは、レヴィ・ストロースの構造主義と関係づけられます。 彼は言語を音素に分解し、それぞれの言語の音素は異なっていても、その対立関係によってそれぞれは成立していることを示し、 最終的には例えば古代の医療と現代の医療とを相対化しました。この哲学は世界を席巻しましたが、これは現代音楽の原著的な手法となっています。 このことにより、さまざまな伝統楽器の持つ特殊な音がノーマルな音とともに相対化され使用できるようになり、 また、西洋の伝統楽器以外の楽器もそこに組み込むことが可能になりました。 その後は身体性の哲学が優位になり、今もその発想に基づく作品が製作されています。

和声対位法をやる意味はありますか?

 難しい問いです。なぜならそうして学んだことが、ときとして作曲の障壁になりさえするからです。 しかしこれらを知らずにオーケストラや楽曲分析をすることは不可能です。 つまりフォーシェのようにとくべつうまいところまで行かなくても、自分なりに技巧を凝らした課題製作の経験は必要ですが、 問題はああした充実した和声、流麗な旋律、豊かな旋法性といった響きをどのようにして自分の語法でのモダーンな作品制作に活かしていくかが難しいので、 必要ない、という人がいるのだと思います。

 しかしクラシックから入って現代音楽をしようと思うのなら、楽壇というものを考えたとき、基本的にはそうした和声対位法の小さな課題製作を通して 作品感を涵養することが必要なのだと思われます。 むろん、そうした決まり切ったフォーマルなスタイルを強制しようというのではありません。なんでもかんでも、 和声対位法の課題に結び付けようとすることに反対する人たちは、ドビュッシーの作品ですら、あまりに真面目すぎる作品に聞こえるでしょう。 そしてそれは確かにそうです、が、楽壇というのはいつでも、つまりはそうしたフォーマルなスタイルが要求されている、だたそういうことです。

現代音楽はなぜあんなに特殊技法ばかりなのですか?

 クラシカルな和声や旋律を離れてマトリクスなどによって作曲するモダーンスタイルに移行する際、その響きを支えるには、特殊な音によらざるを得ないから、です。 例えば不協和な響きは常に用いられますが、それをそのままクラシックスタイルの音色で出すと、 響きもいまいちだし、クラシックともモダンスタイルともつかない移行期のような感じがしてしまいます。 逆に協和を用いる場合は、倍音列を援用して、それまでの協和とはまた違う協和を必要とする局面が出てきたりするわけです。 こうすると、必然的に譜面は特殊奏法の嵐とならざるを得ませんが、それらはマトリックス(一覧表)や作曲計画表、理路整然とした展開や 先述のフォーマルなスタイルの意識によって支えられているので、作曲者も演奏者も混乱はないということになります。 ああした特殊奏法はカッコつけではなく、必然的な「理由」があります。

ファーニホウのような複雑でカルト的な音楽はどのようにして書かれいるのですか?

 先述の通り、モダン・スタイルは音楽以外の技術革新の影響を受けているのてすが、その骨頂がまさにコンピュータでしょう。 オープン・ミュージックというソフトでリズムセットを作り、また、あらかじめ用いる音を決めて、作品制作がされています。 要はパソコンなしでも作れなくはないけど、複雑すぎてイヤになったり、余りに時間がかかるところを、ソフトの力を借りることでそれらをクリアしている、ということなのですが、 問題は、コンピュータを積極的に採り入れるか、あるいは手書きでの製作や発想を残しておくか、これらの違いがあるように思います。 極端に言えば、積極的に取り入りれる側の人は、Maxなどで作ったプログラムだけで作品を完結させます。音選びすらいっさいしないスタイルです。演奏者も必要としません。 中間的には、困難な箇所だけOpen musicのソフトでモジュールを作って頼ったり、音のチェックをしたりするでしょう。あるいは調性が出てしまって目立ってしまい、 変になるところを人の手で直したりします。 最も浅いコンピューターの使い方を言うなら、浄書だけFinaleやSibelius,Musescoreで行うというパターンがあるでしょう。 周りの技術革新と音楽をどう結びつけるかの方向性は、それぞれの作家が決めていくことになります。

何を動機に作曲したらよいでしょう? 作曲する意味はありますか?

 なんでもよいでしょう。いちばんよくあるのは提出期限がある、などの制約でしょうけど、だったら、それがなかったら作曲しないのか、 ということになってしまいます。ですから、基本的には、自己の内発的要求や癒しが動機となるべきでしょう。 売り物ではない作曲、それのない世界がもし、途轍もなく味気なく感じられたら、貴殿は作家なのだと思います。 いちばんよいのは、音楽とは全く無関係なことしてみることです。それですべてがわかります。古来から労働は芸術の原動力なのですから…

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